店主の写真コーナー2


 ページが重たくなったのでパート2です、御笑覧下さい

 地下資源の豊富な山口県にはセメント関連の工場が多くありますが、セメント貨車はほとんどいませんでした。珍しく宇部興産の貨車が徳山で見られました。79年5月13日 タキ11517 553レ 積車だったのか回送だったのか車票をメモしていない。
 大阪港駅常備なので、宇部から船で運び大阪港から内陸に運搬していたのでしょう。北海道に配置の宇部興産もあったようです。
4月22日



 広島ネタがないと、さびしいので季節はずれですが「三段峡観光号」。職員
手作りのヘッドマークがいい味をだしています。キハ58でなくキハ47も珍しい?キハ47 1100、8537D 84年10月10日
 今では紅葉シーズンと言えば11月ですが、地球温暖化はこんな所にも。
三段峡は駅までは車掌で何回か行きましたが本体には行ったことがありません。山口県民は「長門峡」と「黒岩峡(どこじゃ?)」でしょう。
4月9日



 今月の「RMライブラリー140 有蓋ホッパ車のすべて」でしたので、写真に載っていないホキ4700小野田セメント時代。真っ白でよくわからない、81年1月31日 5688レ 小野田にて。
 この年の9月に日本石油輸送に転属したのでギリギリ撮れた写真。
3月24日



 予約が0は「妙高」でASSYパーツの注文が10両以上なのがマニ37の1両分。
前回の写真は14系併結のスロ50改でしたので今回はカトーが発売するスロ60改造の写真マニ37 2015 門サキ 荷30レ 83年8月6日広島にて。
 旧型荷物車といえばぶどう色のマニ36やマニ60が多数を占めていたのでこの青いマニ37は目立つ存在でした。しかし長崎配置のマニ37は1両のみ、一般荷物車として使用してたのでしょうか?
1月27日



 カトーの新カタログが発売されました、一番のニュースは四半世紀ぶりにキハ40系の続編「キハ47 0」が発売予定になった事でしょうか。
 巻頭の予定品にEF62前期形+急行「妙高」とありましたが写真は「後期」、急行も「越前」、まともな写真はなかったのでしょうか?紛らわしい。昔カトーの方に「おたくの写真はへたですね」と尋ねると「うちの社員が撮ったものですから」と答えていたような記憶があります、写真代をケチったのか。
 紛らわしいので前期形の写真、85年3月キハ82「まつかぜ」の廃止の際、竹下から向日町に回送の先頭に立つEF62 21関 広島にて、マニ50に車掌が乗っているので電暖付のEF62が牽引したのでしょう。
 EF58の代替で下関運転所にEF62 4と13〜38号機が高崎第2機関区から転属、24号機までは前期形なのでほぼ半数、ナンバーも20と23があるので皆さん買ってくださいね。
1月7日



 10月から11月にかけて首都圏色の気動車が発売されました、昭和50年代後半に鉄道に興味を持った方はローカル線と言えばこの色でしょう。
 それより以前は2色塗りに思い入れがあり、これより若いと黄色とクリームの現行が馴染むと思います。「タラコ」世代はこの中間の10年ほど、50系客車もこの世代。
 写真は午後の下り列車なので顔を出しているのは(危ない!)○木高校の学生でしょう、この高校生も今では40過ぎの立派な大人になっているでしょう。今ではキハ40系窓は更新されて窓の上が少し内側に開くようになりこのような事も出来なくなりました、仮に開いたとすれば草と笹で顔がしばかれる(でもやっちゃダメ)。そしてまた一色化でまた「タラコ世代」が生まれるのかな?
84年5月9日狩留家〜下深川 キハ23 16 広ミヨ 861D
12月3日



 トミーから待望のキハ47が発売されました、トイレ付のキハ47 0は学研以来!
 500番も発売になりましたが0番とは台車以外にも違いが、写真窓下ルーバの下の形状が違います、なぜ?88年岩国駅にてキハ471507。
 500番は越後.弥彦線電化の際広島地区の115系0番台6連のモハユニットを抜き先頭車改造工事を行って、新潟地区に転属させ替わりに電化で余剰になった当番台が広島地区に転属した経緯があります。
 広島地区では珍しい空気バネ付車両で、運転台の高いキハ47は乗務員からは「フワフワして気持ち悪い」とか、ホームの低い芸備線の某駅で密封形円錐ころ軸受の回転するのを見た乗客が軸受のふたが取れていると勘違いしてJRに連絡、列車を止めた事があったそうです(コンテナ列車とかE231系など最近の車両は前面運休になってしまう)。この車両を「マリンビュー」や「みすゞ潮騒」に使用すれば乗り心地も良かったと思うのですが。
11月23日



 三江線のとある駅、マイクロバスを改造した保線用のモーターカー。後ろに資材や工具を運搬するトロッコを従えています。これに乗って作業現場に行ってみたかった、ただし米子局の浜田保線区の車両。乗り心地はどうなんでしょう?、ハンドルは使うのかな?北海道のDMVを見て思いだしました。 85年夏 11月3日



 14日の幕張メッセでのホビーショーに出かけるついでに「あけぼの」に乗っておこうと「サンライズ」「スーパーひたち」「はやて」「つがる」で青森に向かいました。2時間程度時間がありましたので青森港に展示されている「八甲田丸」に向かいました。88年以来20年以上ぶりの青函連絡船、なつかしい。
 ブリッシやキハ82 スユニ50 ヒ600 DD16のいる車両甲板など回ってエンジンルームに、波動エンジンでなく「川崎マン」エンジンと対面。4サイクルターボ付1600馬力といえば日立の試作ディーゼル機関車DF90が日立マン1680馬力でほぼ同じ。このエンジンの音とDF90がほぼ同じと思えば青函連絡船のエンジンの音ってどんなだったか?と思いながら眺めていました。
 これが8基で船が動く。船の横には「津軽海峡冬景色」の歌碑があり石川さゆりの歌がずっと流れていました、さゆり姉さんも天賞堂の蒸気機関車を持っていると昔TMSのミキストに書いてあったと記憶しています。
10月22日



 タキ24300と同じポジ箱になつかしい広告電車の写真が、覚えていますか?「可部線もCity電車の仲間入り23本増発」。元祖ラッピング電車、カッティングシートを手作業で切り貼り付けたのでしょう(人は余っていたので人海戦術でしょう)、当時相当インパクトがあった記憶があります。クハ104‐24+クモハ105‐531 751M 86年4月25日 横川駅にて
 3枚ドアオリジナルと4枚ドア改造車で車体断面が違いラッピングも苦労したのでは。模型化してみませんか。
9月27日



 カトーからタキ1000の新バージョンが続々発売されるようですが見た事のないこのあたりの人は「別に...」。山陽本線ではこのタキ24300のほうがよく目にしていたのでは。
 タキ24300、テレフタル酸専用で黒崎の三菱化成所有、もちろんメーカーは備後の三菱三原、61両製造され岡多線(後の愛知環状鉄道)の北岡崎まで運用されていました。ユニチカ(手塚さとみを思い出すのは年寄)の繊維原料で写真のように大量に輸送されていました。鉄道ジャーナルの記事で「タンク車に入っている油がチャポチャポ揺れるとフラれて空転を起こす」と機関士が語っていましたが中味は「粉」。
 あの阪神大震災の山陰貨物迂回でも連結されていたのでよほど重要な貨物だったのでしょう。この輸送が終わると車扱い貨物は衰退し新幹線のレール輸送ぐらいしか残っていません。
 86年4月29日 横川〜西広島間にて3870レ このあたりは当時徐行中でこんな写真は簡単に撮影できました、八幡川の水を大田川に流す排水菅をこの線路の下に通す徐行で結構期間が長かった記憶があります。
 首都圏に顔出さないので模型化は無理のようで。 9月11日



 カトーからキハ181系が発売されるようで「はまかぜ」でなく「やくも」らしいので薄幸の食堂車キサシ18‐10の写真。82年6月20日米子にて34D「やくも」
 1970年富士重工製だからまだ12年、まもなく電化で引退するので非常にもったいない、でも境線の大篠津にはこの時数両が休車留置されていたのでまだ幸せか?。キサシ181には夜行「さんべ」が山口線経由になった時の帰り雪景色の中ハンバーグ定食を食べた思い出があります。
 国鉄の提案で余ったキサシを客車に改造して「日本海」などに連結してはと書いて提出したのですがもちろん却下、後に「北斗星」など電車改造で生まれたのですが。 ニコンF2 コダクロームKRだから赤みが強い 
8月29日



夏は海水浴のシーズンです、虹ヶ浜海水浴場の玄関口「光」駅の先代の駅舎の写真、なつかしいな〜76年8月。光駅のイメージは汲み取り便所の臭いと改札を出たところにある池とトキ150000。
昔は本当に駅名も「虹ヶ浜」でした。駅名の変更には戦争の影が...。光市の中心は駅のそばでなく元の「光井」のあたり。昭和10年代海軍工廠が出来る時軍が一言「広、呉と一文字だからここも光にせよ」、広と呉にも海軍工廠がありました。
 写真で光らしいのは車の前に見える自販機、「プラッシー」お米屋さんで売っていたみかんの粒が入っている武田薬品が発売していたジュースです、後の「C1000タケダ」の元祖か?光に武田の工場があるのでその関係でしょう。8月12日



 猛暑でネガを探す気力がなくやっと適当な写真をひっぱり出しました。今月の「鉄道車輌ディテール.ファイル」は「瀬野機関区のEF59 PART1」です、 現在EF59の模型は昔発売されていた天賞堂の完成品と最近発売の「天プラ」EF5924号機、キットは珊瑚のEF59、そう言えばミズノも完成品があったですね。広島の人何人持っていますか?この本を見て参考にしてください。 
 写真はEF59 21号機、86年10月12日の瀬野で公開の一枚。
 

 河合商会の新製品に「ワム500000事業用車 じんあい運搬車」が発売されます。そういえばそれに近い貨車の写真があったような。
 名古屋名物は「きしめん、ういろう、みそかつ」ですが名古屋駅の名物は「きしめん、テレビ画面の発車時刻案内とこの「じんあい運搬専用」貨車でしょう。80年5月1日
 駅にごみ運搬車が乗り入れられないのでこのような貨車を用いていたかは謎です(土産物の搬入はどうする?)。ごみをいっぱいに積み込んで入換のDLが今の名古屋車両区のあるあたりに運搬していたのでしょうか?運用板が読めれば謎は解けるのですが。
 広島駅はごみ運搬車が矢賀の車両基地の奥にあった焼却炉で燃やしていました、十数年前まで紙もプラもごっちゃに燃やしていました、その熱でお湯を沸かし「スッポン」の養殖をしていました。JRの関連事業の目玉(ホント)で謎のドリンク「スポエース」を発売、某模型店で飲んだ方はいるのでは。
7月5日



 キハ37。大きく馬力のないキハ40からローカル線用に軽量高出力化した気動車の元祖。試作で5両だけ製作された少数派、この車に搭載されたDMF13Sエンジンは三陸鉄道や鹿島臨海鉄道に使用され、国鉄末期にはキハ31,32,54にも搭載されました。この時代には珍しく縦形エンジンで車高が高い、キハ31などは横形に変更されています。
 少数派でも東京の近くの久留里線で現役だから模型化されるのでしょう。マイクロと16番ではマスターピースが発売されるそうで、写真はもう一つの配置線区加古川線での姿、86年7月21日厄神にて キハ371001 大カコ 744D 別にこれを撮りに向ったのでなく三木鉄道のレールバスに乗って見たかったのついでです。
6月20日



マイクロエース10月の予告品、「お召し列車カバー付」でこの写真、87年5月 徳山にて、やっぱりバックの「ニチイ」が懐かしい。
 佐賀で行われた第38回全国植樹祭で運行されたお召列車の返却回送シーン。ホームのない2番線に止めるのがミソでしょう、走行中に外れたら大事なので厳重に止めているのがわかります。しかしこれをやるとはマイクロエースらしい。
 余談ですがこの回送列車、広島車掌区が乗務を担当しました(区間は忘れた)。臨時なので予備組が担当するのですが、回送といえども車掌長クラスが乗務し車掌区の「業務総括助役」も乗務した物々しい列車でした。
5月30日


 ママよりこわいドクロベェ様よりこわい方がやって来てバタバタしてまして写真の更新が遅くなりました。
 徳山駅にたむろする石油タンク車の姿、78年1月29日 タキ10000他 トライX
 徳山にある出光興産には専用線があり、石油タンク車やLPガスタンク車が配置されていました。しかし沿岸部の人口の多い所は海上輸送(広島も海田の港に油槽所がある)がほとんどで、徳山から貨車でどこに運んでいたのでしょうか。最後まで益田に重油を運んでいた事から海上輸送では大回りになる山陰や長崎、熊本方面と思われるのですが。写真だけでなく「車票」も記録してなかった事が悔まれます。
 余談ですが、徳山に出光があるので「題名のない音楽会」の公開収録がたまにあります。
5月25日



 ゴールデンウィークも終わり通常に戻りましたが、模型屋稼業は4月29日から5月10日まで休みなしでした。
 23年前に車掌になりその後の模型店でもゴールデンウィークは無縁でした。写真は83年5月5日、保線の事務係時代、1と2日で月末仕事をかたずけて芸備〜新幹線〜ちくまを乗り継いで向った飯田線の撮影名所「田切のカーブ」バックに見える南アルプス、主役は旧型国電クモハユニ64000。静岡ホビーショーの前に飯田線でも訪れたいものですが、12連続営業の疲れを取るのが優先になり今年も無理。若くて元気で暇もある内に日本各地を訪れましょう。 ニコンFE コダクロームKR 5月6日



 トミー新製品販促写真シリーズ、ワム90000 扉リブなし。79年11月3日徳山にて3289レ。
 この時代急激に数を減らしていたワム90000、リブなしが目の前に止まって大喜びで撮った一枚です。昭和13年川崎車輌製製のワム23473を二段リンク化改造でワム90000に形式変更した車両、元の23000の前に1を足しています。この車両の17番前は「ワム123456」!!製品もこの番号にしてほしいものです。ニコンF2 プラスX  4月23日



 トミーの新製品情報にワム90000といっしょにポム1の発売予定が発表になりました、車体は同じで形式を変えれば新形式アイディア商品です(私もKATOのワム90000が発売されるとすぐにポムにしました)。「名」の局名で有名な陶器車ですが何を運んでいたのでしょうか?。陶器といえば皿や壷や茶碗と思われますが私の想像では「瓦」「土管」「便器」「洗面所」などではなかったのでしょうか。石州瓦で有名な山陰本線の都野津駅常備のポム1がそれを証明しています。瀬戸物で有名な名古屋地区ですが「三州瓦」でも有名です、おそらくそれでしょう。
 写真は77年8月11日徳山にて、上り列車ですが「車票」を見ると貨物を積んでいるようです、積荷は何だったのでしょうか?
ニコンF2 トライX 4月10日



 トミーから300系新幹線の現在の姿の仕様が発売されました。シングルアームパンタと直ジョイント化された屋根上が大きな変更点です。しかしプラグドア車のJR東海車はすべて廃車になっています、新幹線の変化は早い。
 99年秋に製造された300系最終増備車J59〜61編成は、パンタグラフはそのままで引き通しのみ直ジョイント化された異端編成です。すぐにパンタグラフも改造されたのでこの写真の姿は貴重なのではないでしょうか。2001年5月、静岡にて J61編成 326‐460



 岩徳線のキハ25 18、よく見ると前側客ドアの横の戸袋窓の上下にフックらしき物が付いています。タブレット保護棒を取り付けるためでしょうか?。
対向式ホームで通過の時キハ55は運転士の後ろに助手が入って行えますがキハ25の場合運転士の後ろに入る余地がない、運転士が手放し運転で行ったのか。それともこの写真から想像しますが客扉を開けて受授してたのでしょうか、だれか教えてください。この車両は岩国生え抜きなので岩徳、呉、山陽線で走行しただけでは通票はいらないはず(どこも自動閉塞、おまけに岩徳に通過列車はいない)で、芸備の急行の増結に使用したのか?
78年1月29日 徳山にて ニコンF2 トライX  3月16日



 地元向けの新車!おまけに新形式、試運転の前に一同記念写真。81年1月20日、宇部小野田線向け105系公式試運転の際の写真です。先頭はクモハ105‐16 広ウヘ 試9592M、もちろん場所は下松駅。下松〜西条〜広島と試運転が行われました。
 後に広島車掌区で日立の構内で製作中の105系の写真があり、それは宇部新川車掌区が新形式の講習に取材したもので、それを可部線105系化の際広島車掌区が譲り受けたものでした。写真はモノクロ、もう30年近く前の話ですね。 ニコンFE トライX
3月6日



 「あけぼの」を見送って地獄のような「大垣夜行」を降りると名古屋。中央西線の70系や165系を撮って待つこと数時間、キハ81「くろしお」と御対面。正面の写真は見飽きたでしょうから後ろからの姿を。紀勢線はトンネルが多く屋根は真っ黒、常磐線無線アンテナなど見えません。
 60年生まれのキハ81、私も同じ年。キハはまもなく廃車の運命、私はまだ高校2年生。
77年8月13日 名古屋にて ニコンF2 ネオパンSS 2月23日



 カトーからHOのDD51が2種再生産されました。86年に発売された時、仕事が終わって模型店に電話すると「入ったます」すぐに向い買ってしまいました。初めての国産量産プラ製品の出来に感動しそしてやっとHOサイズもプラ製品の時代が来たと思いました。その後のカトー製品でこのDD51以上の感動があまりないような気がします。
 オハ35もみな「待っていました!」状態(蒸気好きの方は特に)で大量に売った思い出があります、某問屋などあまりに大量なので室内でさばききれず前の歩道で荷造りしたと聞いています。
でも今回なぜブルーを再生産したのでしょうかね?いつも模型店の売れ残りになるのですが、この写真のような国鉄末期のブルー主体の列車を再現してくださいとの事でしょうか。最後部はオハフ33でも戦後形。
86年7月20日 餘部にて DD51785米 525レ ニコンFE コダクロームKR



 お盆前の上野駅地上ホーム、独特の臭い、電源車のディーゼルエンジンの排気臭&騒音、ホームの喧騒、おまけに蒸し熱い熱帯夜。初めて「あけぼの」を見たのはこれが始めてでした。電源車はマニ20 51、今となれば貴重な写真かな。このあと「大垣夜行」に乗って名古屋でキハ81「くろしお」を撮らなければ。
77年8月12日 ネオパンSS ニコンF2   2月6日



 三次に住んでいた頃、芸備線を撮ろうと職場の○岡氏の車に乗せてもらい塩町〜七塚あたりで撮影しました。山之内駅に寄ると奇妙な保守用車(モーターカー)が留置していました。
 調べるとレール積みおろし用操重車ソ60の慣れの果ての姿でした。
 71年に14両日車で製作され、2両一組で間にチキ車を2両はさみ主として操車場構内の25メートル定尺レールの積みおろしに使用されたようです。
それが83年にはクレーンなど取り外して保守用車になってしまうとは、貨車と保守用車の中途半端な車両で大して活躍しないまま休車になったのでは?。私の思うに耐用年数もまだあり会計検査院も怖いので(税金の無駄使いとなる)保守用車に転用したのではないでしょうか。77年に岡山操に70と71が配置がありそのどちらかでしょう、全国でも存在したのでしょうか。
 当時塩町から先は岡山局なので謎です、大型なので除雪用か?
83年10月23日 山之内にて コダクロームKR ニコンFE
1月15日



 来年はC62の年になりそう、天賞堂からついにカンタムC62、それも従来からのダイキャストボディと伝統のブラスモデルにカンタム搭載の2バージョン。30万以上のブラスモデルにカンタム搭載でいったいいくらになるのでしょう。でも「山陽タイプATS付」もラインナップに含まれていますので「安芸門徒」の方いかがでしょうか?。
 布教しようにもC62の写真など私には縁がないのでお客様の写真を掲載します。50代半ばの方が40年前、1970年頃中学生時代に撮ったC62 17号機。広島機関区派出のターンテーブルにて「あき」のヘッドマーク付。
 製品ラインナップにある17号機は東海道線時代と思われますのでやはり山陽タイプがよろしいのではないでしょうか。
12月26日



 KATOから「ゆうづる」発売、でもこのあたりのみなさんはこの写真が再現できないかと思っているでしょう。1年半で消えた24系「はやぶさ」、76年4月2日東京駅にて。
 前回発売の14系オシ14をASSYパーツで1両組んでトミーの電源車を何とかつなげば再現できるのでは?。
 しかしごついジャンパー線がついていますね、14系のほうが顔は美しい。
12月22日



 しつこくワム80000ネタ。アクラスの初期型(GH−1102−2)の番号変更だけで写真のバインダー(自動稲刈結束機)専用の582000番台ができます(インレタは目が悪くなるぐらい入っています)。80年7月15日 柳井にて
 柳井は商業都市として栄えましたがまわりは「田舎!田舎!」余田、日積、伊睦など田んぼしかありません、職場の人も「半鉄半農」が多かった。父の生まれた柳井の隣の平生も大田舎、田んぼばっかりです。そこでこのワム8はメーカーのある「久保田鉄工」の最寄駅大阪の百済からバインダーが売れる柳井に製品を運んだところを私が写真に撮ったのでしょう。7月は稲刈りの前なので辻褄が合います。
 68年に鷹取工場で5両改造されたそうで、写真の車両は両側ブレーキに改造されています。でも今回スキャンして驚いたのは常備駅が「広鉄局 柳井駅常備」となっていた事、本来は「百済」です、バインダーを運ぶのをやめて「みかん」専用になったのかな。大発見!吉岡心平さん知っていました?。
12月7日



 アクラスからワム80000が発売されました、前回のワム60000の欠点がほぼ解消され好ましい製品です。ただカトーのワム80000と何が違うの?と言われたら売れないでしょう。
 そこで「違いのわかるモデラーのワム80000」「♪ダバダー〜ダバダー〜by伊集加代子」
 カトーのワム80000は75年以降製作の280000番台、つまり蒸気機関車牽引の貨物列車には合わないのでアクラスがお奨め(トラ45000も大嘘になるがあまり深刻に考えると何もできなくなる)、これが一番の違い。逆にJR時代の貨物は280000番台なのでアクラスはダメ、ダルマさんにしてレイアウトのストラクチャーに。
 写真のような初期型はアクラスしか完成品はないので変化をつけるには良いのではないでしょうか(2800両ぐらい全体の1割)、83000以降はカトーとあまり差がないのでこのあたりなら「岡」局「万富駅常備」でビール貨車の584000番台にいかがですか。
 しかしここ広島では「国鉄型近郊型電車」はウジャウジャいるのにワム80000を見かける事が皆無になるとはなんとも。
 80年11月1日 380レ徳山にてトライX、ニコンFE
11月26日



 カトーからEF15、EF16製品化の発表がありました、16はともかく15はこのあたりにも結構見られたので「おじさま」方には人気商品になるでしょう。
 78年まで広島機関区に配置で末期は呉線がメインだったので徳山で撮った写真はこれ1枚、へたくそですがEF15よりも隣の80系や上の「テルハ」のほうが価値がある写真かもしれません。78年1月29日 EF15 160広
11月5日



 途中富山ライトレールに寄り道をし、475系で金沢に着いたのは21時過ぎ。「日本海」を見送って「北陸」の入線を待ちました。発車30分以上前から入線したので車内探検の後すぐに検札を受けてシャワールームに向かいました。
 列車の中でシャワーはいつも慌しく済んでしまいます、「もし途中で停電になったら?事故にあったら?お湯が出なくなったら?」など気にするから急いでしまい6分のお湯が3分で済み、あとは無駄になるのでした。
 シャワーカードコレクション、「あさかぜ」はあさかぜ4号スハネ25 700のでこれだけ紙製。
10月26日



 5分から15分しかない慌しい乗り継ぎの後(寝過ごすと大変)、大糸線のキハ52に乗車しました。中に入って一言「古過ぎる!」、車齢44年の車内は見慣れたキハ40更新車(これだって車齢29年)と比べると相当古く感じます。
 もう一つ驚いたのは沿線風景、名前は「姫川」ですが川原には巨大な石やコンクリートの破片がゴロゴロ、十数年前の大災害の爪痕がいたる所に見られました。沿線には「電気化学工業」(軍配マークの貨車で有名)の発電所が多く見られました。
10月22日



 秋のホビーショーついでの旅行、一昨年は「北斗星」、去年は「日本海」と乗車したので今年は「北陸」、どうやって金沢に向えば良いか時刻表を見ながら悩んだ結果、名古屋前泊、中央西線〜塩尻〜中央東線〜小淵沢〜小海線〜小諸〜しなの鉄道〜篠ノ井〜篠ノ井線〜松本〜大糸線〜糸魚川〜北陸〜富山〜富山ライトレール〜城川原〜金沢のルートになりました。名古屋7時発の「しなの」かぶりつきグリーン車クロ383‐103。
 生憎の雨でしたが前面展望は迫力があり、平野部の高速走行、山間部の振り子走行(落石警報装置だらけ)25パーミル勾配など寝てる暇もありませんでした。D51の頃は大変だったと想像します。写真はその筋の方の聖地への入口、上松にて。
10月17日



 天賞堂スハ32系の宣伝、Nでも発売されたマニ36(スハ32改)、83年10月15日広島にて。2136名ナコ 荷30レ
元スハ32 2527を鹿児島工場で74年に改造、荷物扉に窓桟があるタイプですが周りと色が異なります、なぜ?。それはともかく10月半ばの朝ですが床から大量のスチームが放出されていますが、昔の10月は現代と比べて暖房が必要なぐらい寒かったかな?(これも地球温暖化の影響か)。それとも国鉄御役所体質で無駄を承知で規定通りやっていたのか当時機関助手の○船さん教えてください。
9月29日



 今月のRMライブラリーは「国鉄コンテナのすべて 下」です、18日入荷とは早すぎます。
 さてライブラリーに触れているように大竹には各種国鉄ホッパコンテナが配置されていました。車窓から「いつか撮っておかないと」と思い撮影に向かいました(なぜこの後川下信号所に行かなかったのか)。日曜なので係の方も暇なので案内してくれました。H902は国鉄ホッパコンテナの第1号で1965年製、ポリプロピレン樹脂ペレット専用で写真でわかるようにステンレス製。他にもH11、H12がいました(左右に見える)。79年12月16日コダカラー400 翌日はすぐそばの線路のロングレール更換でした。
9月19日



 「別に...」の急行「能登」の走行写真、EF58でなく64の頃、81年6月21日 浦和〜南浦和 3604レ EF64 1011長岡 
 当時鉄道ファン誌に宮澤孝一氏の鉄道写真のコーナーがあり、夏至のシーズンはこの場所で撮影するのが年中行事とあり、夏至の頃向かいました。大垣夜行で東京に着けば4時40分、京浜東北線で現地に行っても「新星」からすべて撮影できます。「鳥海」「天の川」「妙高」「津軽」「越前」「あけぼの」など次から次にやって来ます、時々京浜東北線がじゃましますが早朝なのでそんなに被りません。縁のない常磐線の「ゆうづる」もEF80に牽かれて東大宮操に回送で向かうので撮影できました。東大宮からは上野始発の特急電車の回送もありパラダイス!!!
 すべては山陽夜行列車をまともに見られなかった恨みをこちらで晴らしているのは確かでした。岩堀晴夫氏の「西の58」の写真を見てうらやましかった、「音戸」「日南」「高千穂、桜時」「雲仙」「西海」「阿蘇」「天草」「つくし」「しろやま〜屋久島」など(「安芸」は知らん)ほとんど夜中で見ていない恨みは模型で晴らして「荻原教」の急行客車が大量に製作され、それにカトーのスハ43など合わせどうにか再現できるようになりました。でもナハ10が6両キットのまま。
ニコンFE トライX      9月12日



 カトーから「能登」セットが発売されるそうです、実物が次のダイヤ改正で廃止になるようでそれに乗じたのでしょう、広島の人は「別に...」でしょうが。
 一つ引っ掛かるのがこの「スニ41」これだけ欲しい方は多いのでは?はるか昔のカタログの予定品にもあったですよね。でも今後カトーのASSYパーツでボディと床下の販売がなくなるので1両分をパーツで揃える裏技ができなくなります、残念!一部の人気車種はパーツでの1両組を企画するようですので少し期待しましょう。
 写真は76年12月27日徳山にて スニ41 3 熊クマ 荷30レ 79年には東日本に転属してこのあたりはワサフしか見られなくなってしまいました。
 冬の朝にネオパンSSで撮らない事。



 そしてこれは「グリーン車がなくなります」のポスターです、大阪駅のコンコースにて


 22日臨時休業したのは某模型クラブの競作に参加する為で、作品を仕上るのが忙しく写真コーナーやキハ40の塗り替えが疎かになっていました。
 競作に大阪出身の方がゲストで参加され「キハ81のヤッターワン、ゾロメカ出動状態可能?」を出品され出来栄えに圧倒されたのですが、その他持ってこられた作品に刺激を受けてしまいました。
 写真コーナーにもある「身延線のモハ62、クハ66(なんとエンドウから発売される)」などありましたが写真のサロ110‐900入り東海道線快速編成など見ると近郊型電車も良い物と思いました(KSのキットは大量に持っています)。
 写真は終焉間近のサロ110‐901 大タツ 746M 80年8月31日大阪駅にて。北海道から「日本海」で大阪に向かい終焉間近のサロを撮っていても900番はやって来ません、あきらめようとしたらやって来ました「そこのおねーさん、ちょっとのいてくれませんか」と言って撮った記憶があります。
8月25日



 KATOからキハ35系の首都圏色が発売されます、一般色の頃は芸備線や可部線で見かけられましたが「タラコ」色の時代は配置がないのでどうですかね。
 製品にはオールステンレス車のキハ35 900も発売されます、写真は高崎駅で八高線のキハ35 910 高タカ一 81年9月12日、隣はクモニ83?
 模型はエンドウのNゲージが有名ですね、しかし一般の35の顔と比べると印象が異なります。
8月10日



 ありそうでなかった115系3000番台の「ひろしまcity」ヘッドマーク付、広島運転所の115系にヘッドマークを取り付けていた関係で、当時下関所属の3000番台にはヘッドマークは付いていませんでしたが編成の控えを見ると広転所属になっています。国鉄末期に転属、直後に撮影した写真でしょう。87年2月16日、クハ115‐3006 広島駅にて358M
 後に、このヘッドマークを販売する側になろうとは。
8月6日



 石巻線の貨物列車でなく、岩徳線の貨物列車。87年2月25日 周防花岡〜櫛ヶ浜 う55レ DE10 1576厚+1072広
 「う」でお解かりでしょうが山陽本線 岩国〜南岩国間の橋梁架け替工事に伴う線路移設工事で数時間の作業間合いを確保する為、旅客列車はバス代行、貨物列車はなんと岩徳線経由で迂回輸送を行ったのでした。
 乗務が終わって新幹線で先周りして何とか撮った写真です(時間があればもっと良い所で撮りたかったのですが)。田布施〜岩田間が不通になった時鮮魚特急が岩徳線経由で迂回したなど結構あったのですが、災害時なのでこちらも仕事で手一杯で写真がありません。数年後光〜下松間が不通となりブルートレインが迂回したのが(DE10がEF66ごと牽引)最後でしょう。
 昔、尾道付近が不通となりキハ82の「かもめ」が伯備〜芸備線経由で迂回し、それを備後西城で見て感動したお子様がどこかにおりましたな。
7月25日



 トミーから「ユーロライナー」のリニューアル製品の発表がありました。1年の売上を決める12月にユーロなんか出さなくてもいいんじゃないかと私は思いますが手に入れていない方には待望の商品でしょう。
 トミーのユーロといえば塗装、製品は100系新幹線と同じような純白に青帯です、模型としては美しいです、レールマガジンの年間ベスト模型になった事もあったと記憶してます。しかし実物を見て驚くのは「白じゃない!」、今で言えば九州新幹線の「さくら」のような薄い水色のようで模型のイメージで考えていると驚きます、当時よくリコールにならなかったものです。実物より模型の方の色が良かったからでしょうか。
 写真はは広島駅停車中の9112レ「カートレイン名古屋」スロフ12 702+マニ44 2025名ナコ、87年1月4日



 模型クラブの競作「気動車」の製作も佳境となり、下周りの塗装は終わり車体の塗装に取り掛かからなければいけないのですが、梅雨の晴れ間と休日が合ってくれるか心配です。
 さて製作中のキハ25、柳井に疎開留置していた時(1月9日付写真にカラー有)細部写真を撮っていたので参考になりましたが運転台の下は、見れば見るほど訳がわからない構造です。連結器、胴受、エアホース、エアー配管、、ジャンパー栓受、放送ジャーパー受、消火器、乗務員ステップ、釣合空気溜、ブレーキシリンダーなどが狭い空間にひしめき合っています。特にエアーホースが変な所から顔を出しています、どーしましょう?。結局割ピンでエアーホースを保持して所定の高さで止めて配管は適当に床に刺しましたが苦労しました。この写真を見てやる気になった方は作って店主に見せてください。トイレ側の細部を撮っていなかったのが悔やまれます、
キハ25 4 広クニ 80年3月19日 ニコンF2 プラスX



 徳山駅に停車中の421系、「お買物は福屋」の看板がありますが徳山駅です。クハ421‐14門ミフ 1231M 79年2月19日
 岩徳線の客車列車が到着した10時代に徳山折り返しの交直流形近郊電車がありました。今では下関までしか顔を出さなくなりましたが昔は徳山まで顔を出していました、車内の吊広告が九州の香りがしていました。昭和40年代から50年半ばまで続きましたがいつまでだったでしょう、古い時刻表を見ないとわかりません。なぜ徳山まで足を伸ばしていたのでしょう、生まれ故郷の下松に近い駅まで行きたかったのでしょうか?
 80系電車の時代では唯一の新性能近郊電車でした、モハが1ユニットしかなく動○の方には嫌がられたのではないでしょうか、当店に来られるJRのOBの方曰く「交直の電車(581,583)を運転するのは嫌じゃった、壊れたら怖い」とおっしゃっています。
 今はさびしい徳山駅ですが(磯山駅長ゴメンナサイ)昔は新幹線が開業してもいろんな列車が見られて今となれば面白かったです。
6月18日 ニコンF2 ネオパン400



 今月の鉄道ピクトリアルは115系特集、書店で売り切れ続出のようですが当店にはまだ在庫があります。
 115系と言えば゜先頭車改造のバラエティの多さでしょう、過去GMの側面にKATOの運転台を取り付けた作品をいくつも拝見しました。3個.4個.6個とクーラーの数も色々で特に3個はパーツを確保するのが大変だったと記憶しています。
 写真は3個クーラーのクハ115‐653 広ヒロ 87年10月29日岡山にて。63年製造のモハ114‐18を83年に電装解除と先頭車改造を行った車両で87年にWAU101で冷房化した車両です。その際車内もキハ54‐500のようなバケットシートに改造してシートピッチが広くなりました、改造は651は貨物の広島車両所が行ったと記憶していますが653はどうだったか?内装は木目調でした。
 車掌として乗務しましたが、冷房車でも乗務員室に風道がないので冷房の恩恵がなく入線する時クーラーの形を見てがっかりしていました。この珍車も2001年に廃車となりました。
6月13日



 中国地方に戻って木次線出雲坂根のキハ52、85年夏模型クラブで広島〜三次〜江津〜宍道〜備後落合〜三次〜広島と「青春18きっぷ」い゛巡った時の一枚です。左の52のヘッドライトは「一灯シールド」ですね。現在では列車本数が少なくなり同じルートで乗継ができるのでしょうか。
今月末にはトミーキハ52が発売予定です、宣伝(洗脳)ですね。
6月7日



 大垣電車区には改造ネタでクヤ165も配置されていました。元サハシ153‐15を教習車に改造した車両、向日町配置のクヤ153より改造の度合いが高いのでトミーを改造するよりペーパーの方が楽のような気がします。改造するならクヤ153‐1をどうぞ。
5月28日



 153系のバリェーションといえば「クハ164」、クハ153のマスコンを抑速ブレーキ付に交換し制御回路など改造して165系と併結できるよう改造した車両です。クハ164‐5 名カキ 80年5月1日 大垣電車区にて
 広島地区に縁がなさそうですが、元々「セノハチ」用に改造されたもの。65年岡山〜下関間に登場した急行「みずしま」(三菱の車の名前ではない)が岡山方クハ153+モハ164+クモハ165+サロ165+クハ165+モハ164+クモハ164下関方の編成でセノハチで抑速が使用できるように下関側に165系、反対は関係ないので153系と変則編成になっていたそうです(165系は正規は岡山寄りがクモハ)。これを解消する為に改造されたクハ164、トミーが単品で発売すればカトーの165系とつないで「みずしま」号ができるのですが(当時は普通車非冷房ですが)。ホビーショーでトミーの担当の人には先頭車は単品で発売してくださいとは言っときましたが。
 余談ですが現在広島地区に115系のモハ車に113系のクハが併結されてマスコンを抑速付に改造した車両がいますが形式は「クハ114」が正解なのではとクハ164の形式から思いました。
コダカラー400 ニコンF2



 153系で山陽本線西部では見られなかったサハ153、それも非冷房車サハ153‐104(コンプレッサー付) 名カキ3124M 80年5月5日名古屋にて。
 名古屋駅で待っていると153,155(左に見える),159,165系と各種の急行形電車がやって来て一本線路が開いたホームから形式写真が撮り放題。
 山陽地区は80年台初頭には全車冷房化されましたが、東海地区には非冷房車がありそのまま廃車になっています。初めて「大垣夜行」に乗ったら非冷房車でひどい目にあった記憶がよみがえります。最近のTMS誌に作品がありましたが、東海地区の快速編成はバラエティがあって模型化には楽しそうですがとても私には造っている場合ではありません。
ニコンF2 トライX 5月6日



 トミーより16番で153系製品化の発表がありました、165系よりも153系の土地ですので期待しましょう。低運、高運、非冷、冷改、新快速と製品はいろいろなバリェーションで発売される事でしょう。私はKSのキットを15年掛かって(寝かせて)完成させたのでもういいですが。
 115系3000番の前任車、82年秋に消えるまで山陽本線馴染みの電車でした、しかし子供の頃の私の目には80系と同じ色でピンクの475系の方がずっと急行らしい車両に見えました。6連で快速になってからよく乗車しましたが冷房、デッキ付、オールクロスシートで当時最高の電車でした。寄る年には逆らえずデッキの床はベニヤがふやけてぶかぶかになった車両もいましたが、静かな電車でした。製造から初期の車両で25年で廃車、初期の新性能電車ですが今となれば短い一生ですね、3000番ももう27年目。
 82年3月10日 福川〜戸田にて クハ153‐72他 543M 153系は低運でデカ目が一番 ニコンFE コダクロームKR 4月29日



 雨に濡れる美しき旧型国電クモハ53 007 83年5月6日、天竜峡にて。前年三次に転勤となり仕事に慣れず、おまけに自由に休日が取れなくなり遠出ができなくなっていたのですが、飯田線の旧国が危ないの報にゴールデンウィークに出かけました。
 夜行「ちくま」で辰野側から撮影しました、「田切」のカーブももちろん、2日目は雨でしたが天竜峡でクモハ53 007「合○子」に出会いました、美しい!
この1両だけが原形の張り上げ屋根のまま残っていて華やかな戦前の面影を残しています。
 時代が変わり広島の115系も更新され原形を留める車両も少なくなりました、「あの窓とツルツルの屋根はスカン」と言っているあなた、「省線電車は3列ガラベンと砲弾型ヘッドライトと軽合金のドアでないとダメじゃ」と騒いでいる古老と結局同じ、歴史は繰り返すのですね。なお「のぞみ工房」クモハ53 007近日入荷します、いかがですか。4月21日
ニコンFE エクタクロームEL



 事故復旧用操重車 ソ30 広島機関区配置の31番。機関車復旧用の扱い重65トンの大形、製造当時は蒸気機関(うしろに炭水車を連結)で後にディーゼルに改造。
 いつもシートに囲まれていて全体を見たことはありません、訓練の時ぐらいしか活躍する事はなかったでしょう(活躍する方が良くない)。全体が見えないので写真を撮る気がなかったのですが小郡からソ80が転属し廃車になる事となり昼休みに職場から自転車で撮りに向かいました、制服ならフリーパス。
 82年か83年に東広島駅(当時)で起きた電車脱線事故の時は活躍したのでしょうか。85年春 広島機関区派出にて トライX
4月10日



 下関と言えば漁業の町、高架駅のホームでうどんをすすりながら下を見ると漁港、漁船、魚市場が見えます、鮮魚特急「とびうお、ぎんりん」も実質の始発は下関でした。
 JR直後の臨港線の写真、昼の撮影なので市場は休み、夜までコンテナ車は待機中です、レサからコキに変わりましたが今はどうなっているのでしょうか?
3月31日



 C51よりも、C53よりも、C62よりも、EF58よりも、EF65Pよりも、EF65PFよりも長く東海道、山陽本線の特急牽引機であったEF66。
高速貨物用に生まれましたが、情勢の変化でブルートレイン牽引となり気が付けばそっちの方が長くなり24年に渡り活躍するとは機関車自身も思っていなかったでしょう、後任はEF210とはならなかった。国鉄分割民営化は民営は仕方がなかったとしても狭い日本を6分割+貨物にしなくても良かったのではと東海道山陽ブルートレイン(九州特急)の全廃に思う私です。
62年春下関運転所にて EF66 50 コダクロームKR ニコンFE
3月23日



猫A(声 白石冬美)雨がやんでいい天気だニャー。
猫B(声 犬山犬子)暖かくて気持ちがいいニャー。
A それはいいけど後ろの鉄の固まりはニャンニャンダー?。
B 子供の遊び場みたいだけどニャー。
A どうせ大した物ではニャイナャー。
C59(声 滝口順平)ひかえるだべー!わしは安芸門徒の御本尊C59だべー!頭が高いひかえるだべー!
AB はっーはっニャー、恐れながらC59様とはいかなるお方でござりますかニャー?
C59 わしは蒸気機関車とゆうて石炭と水で鉄の路を駆けた偉大な乗物だべー、普通蒸気機関車とゆーとD51とかC57,62とゆうがここ安芸の国ではわしが蒸気機関車の代名詞なんだべー、多くの安芸門徒がわしを拝みにやって来るだべー。
A いつまで活躍なさったのでございますかニャー。
C59 もう40年前の昔の事だべー、今は広島弁をしゃべりよるが、山口県の大都会下松で生まれですがのんた、1946年戦争が終わった翌年の事じゃー、前年の空襲で工場は壊滅的な被害を受けたが戦後の復興は鉄道からとみんな一生懸命になってわしを生んでくれた。わしも長い客車を引っ張って多くの人を運んだものじゃー。
B でもよく考えたら25年程度しか活躍してニャイのではニャ?
C59 そうじゃー、時代が変わってわしは電気や油で走る車に追いやられて最後は呉線におったんじゃ、しかし東京行の急行「安芸」をよく牽いたもんで最後は有名になったんじゃー。
A 「あき」?フニャ?
C59 「安芸」をしらんのかー、広島県人心の列車!進学、就職、上京、出張など昔はみな世話になっとった「出世列車」=青森県民の「津軽」のような列車じゃ、おかげでわしは安芸門徒の御本尊になる事ができたんじゃー。
70年に引退してあとの人生はご覧の通り、市民球場が近いのでカープが優勝したんやら水原勇気がドリームボールを投げたのもみな知っちょる。お前たち猫も猫生は10年ちょっとなんじゃから有意義にすごせよ。
A 今は寝る事で十分だニャー。
B 猫の耳に念仏だニャー。
C59 おしおきだべー。
 と猫と機関車が会話してるかなと思いつつこども科学館に向かう私でした。3月15日



 リクエストにお答えしてウグイス色のモハ72 684、78年12月1日小郡
 70年の呉線電化で73系が入線しクモハ+モハ+クハとクモハ+サハ+クモハの2種類の編成で運用されたようです。その後呉線客車列車置換えの為三鷹電車区より「山スカ」が転属、73系は可部線17m車の置換えのためクモハ+クハの2両で済むのでモハ72は71系の中間車にはさまれました。数年後には新型に置換えられるので塗装もウグイス色のままで異彩を放っていました。684はDT17を履いた56年製、戸袋の保護棒がアクセント、Hゴムが黒も当時としては珍しい。
 廃車待ち疎開留置中の写真です、最近は留置する場所がないので103系などはすぐに下関車両センターに回送されてしまいます。
ネオパン400 ニコンF2   2月28日



 485系200番はかわいそう、模型はいつも最後の発売(東京の論理で1000番や300番が先でその後技術が向上して人気のボンネット)、実物も鬼の○労に「寒い」「狭い」とたたかれていますが個人的には一番かっこいいと思います。この写真のネガ袋にボンネットは「古」と書いてありました(ゴメン)。
 当時最新顔の583系と同じ顔はボンネットよりはるかにかっこいい、300なんて手抜き顔、おまけに「新車」、写真でみても「つやつや」で貫通扉もベコベコではありません。生きている内にカツミのキットを完成させなければ。
74年8月 徳山にて

 
 このあたりで最後までスハ32系が見られたのは岡山駅に居たスヤ37でしょう。元スハフ32306を幡生で67年に改造し職員輸送の職用車に改造された車両です。
 今も見てわかりますが、岡山駅の西側、電車区や西岡山貨物駅は岡山駅から相当離れています、職員の通勤に不便なので駅との間にこの車両が使われていました。当時津山線など客車列車もあり、荷物車の増解結もあったので入換のDE10の仕事の合間に行っていたのでしょう。「何便」と運行ダイヤがあったと思われます。広島は運転所の通勤には入出区の電車に便乗していました。
 やがて「国鉄たたき」の時代になるとこの車両はそのやり玉に上がり86年2月に廃車になりましたが時期がおかしい、国鉄末期はスハフ42が使用されていました、専用の職用車では世間の目が厳しいので一般客車で゜カモフラージュしていたのでは?
 数年前広島に「天神川」駅が開業しましたが、あの駅はダイヤモンドシティや府中町の為ではなくJRの為の駅と私は思います。広島運転所の通勤の便が格段に良くなり、いままで検修と運転業務が別々だった職場が一体に出来たのですから。昔、乗務員はJR広島支社の裏に職場があり(後に広島駅の横の郵便局のそばに移った)検修も本所と矢賀に分散してあったのです、3箇所を巡る「自動車便」があって専属の運転手もいました(タ○レ○トにいた中○さんも)、矢賀も無くなり乗務員も本所に納まり職場が一体になったのは天神川駅のおかげと思います。
80年7月20日 ニコンFE トライX  2月8日


 トミーからスハ32系の発表がありました、昭和40年代までは山陽、呉、宇品線などゾロゾロ走っていたのでしょうが(買ってください)その後50系客車の進出が早く(当時は新車が優先的に入っていた)私の記憶にはありません。初めて見たのは北海道、その後東北に撮影によく向かった時見かけました。32ではおもしろくないのでスハ33にしてみました、郡山駅に停車中のスハ33 2673 仙コリ、81年4月30日、後ろはオハ61か磐越西線の列車です。
 スロ54の冷房化やスロネ30、スロ53を荷物車に改造する時重量増加を避けるため台車を交換して生まれた車両で120両が改造されました。車番は元の番号のままなので673両目ではありません、73年に6両糸崎の配置がありますので呉線にも使われていたようです、元の車両よりは乗り心地は良かったはず。
ニコンF2 トライX 1月26日

 マイクロから123系が発売になったので写真を探してもすぐには見つからないので105系の旧色時代、87年2月16日、梅林〜七軒茶屋、クモハ105‐31+クハ104‐26 758M。
 車掌歴1年ちょっとの私にとって可部線はやはりこの色です、これと123系とキハ40が当時の可部線でした(1本115系もありましたが)。105系の思い出は冷房車が10編成中3本しかなく夏は大変な事、冬も103系改造は床が鉄板の上に床材を貼っただけなので始発の床はキンキンに冷えて靴から寒さが身体に凍み込んで来ました。
 123は冷房も暖房も良く効いて極楽でしたが運転室が完全に仕切られていないのが難点といえました、某芸能人に似ていて学生にからかわれた運転士もいましたね。
 左に見える単灯式信号機もなつかしい。
 ニコンFE コダクロームKR 1月18日 ホコリが多くごめんなさい



 今年の目標、模型クラブの競作「気動車」にキハ25で参加する事、写真は柳井で休車中のキハ25 56 広クニ 80年3月19日
 高校時代通学でさんざんお世話になったキハ25もこの頃に廃車になりました、その後岩徳線はキハ26の天下になりました。DT19のすばらしい乗り心地は今も思い出します。周防久保から1000分の10の下り勾配で加速し新幹線と併走するあたりは時速95`周防花岡の手前でブレーキをかければ軸バネのコイルバネは効かなくなり、残る枕バネはゴムブロックなのでバネはほとんど効かず天井から扇風機が落ちてくるような振動でした。よくホームのオーバーランもありました。
 キハ20は長寿でしたがDT19を履いた初期車や片運転台の25はわりと早い時期に廃車となりました、模型で再現して徳山駅の脇役にしなければなりません。1月9日 コダカラーU 

 寒い今日この頃ですが暖かそうな写真をどうぞ、頭から湯気を出しているEF58 138号機 関 荷32レ 広島にて。 84年3月25日
 59.2改正で新製配置から宮原機関区を離れる事が無かった138号機は下関運転所に転属となりEF62に置換わるまでの3月末まで最後の活躍をしました。各区から集まった58が撮影できるので、当時三次から休日は毎日広島まで撮影に来ていました。昼間に荷物列車が上下3本あり機関車交換もあったので4台の58が撮影出来て効率が良かったのです。暖房用のSGの蒸気もゴハチも荷物列車も過去の物となりました。58が消えると同時に私も三次から広島に転勤となりました。
 来年はカンタムEF58が発売になります、音もですが蒸気が吹きあがるとおもしろいですが無理ですな。
ニコンFE コダクロームKR 12月29日

 柳井駅にやって来た10t入換動車、79年8月29日。柳井にはこれよりも大形の20tの入換動車が配置されていましたが、検査時にはこの10t入換動車がやって来ました。柳井の一番忙しいのは冬場の「みかん」の頃なので夏の暇な頃修繕を行ったのでしょう。
 機関車などは「車両」なので工場に向かいますが、入換動車は「機械」なので機械区の管轄となります。検査時は写真の左に移っているチキ車に10t機を積んで柳井に向かい、代わりに20t機を積んで(図体がデカイのでキャブははずす)機械区に運びます。広島機械区の検修庫は広島駅の現在スポーツクラブのある裏にあり修繕していました。
 機械区はほかにもエレベーター、エスカレーター、マルスなどの保守管理を行っていました。保線区にも「機械助役」の職があり保守用車(マルタイ)などの責任者でしたが、私は初めて「機械助役」と聞いて思ったのは「機械伯爵(by柴田秀勝)」、アニメの見過ぎですね。 ニコンF2 トライX  12月16日

 111系と同じ日、当日1レの「さくら」から昼前の荷物列車まで撮影していました、それも自宅から自転車で、若い時は無理ができましたが今では昔撮った写真を自慢するただのおじさんになってしまいました。
 カトーの発売予定のEF58150茶と同じ宮原区に配置の140号機の引く荷物列車、113系は今も見れるけれどこの機関車と客車の組合せは永遠に再現できません。荷30レ
 茶色の58よりもこの色の58のほうが馴染みがあります、続く荷物、郵便車もパレット貨車(客車)が多すぎますが雑多な編成がとても美しいです。
12月7日

 長い12両編成第2弾、153系12連、82年8月21日 3121M 神代〜大畠
 朝、広島から回送で西条に向い、折り返し広島までの通勤列車が153系12連でした、その編成が配置区の下関まで帰る列車なので大畠が10時前後のラッシュでもない時間に12連があったのでしょう。往年の山陽急行の10連を凌ぐ編成は堂々としていましたが車内はガラガラ。82年といえば583系「金星」の廃止や153系の置換え(115系3000!)間近でしたが大島大橋の上から撮影する同業者の方はまったく見かけませんでした、最近は鈴なりだそうですが当時は孤独に一人撮影していました。ニコンFE コダクロームKR 11月30日

 113系が続々転属すると噂される広島地区ですが、昔々同じ塗り分けの111系が走っていました。81年6月7日 岩田〜島田間クハ111-147他534M 広セキ
 今では想像できない堂々の12両編成!534Mは柳井に通勤する列車で毎日利用していました。柳井商業に通う女子高生が多かった覚えがしますが十分座って通勤できました。しかし一番困ったのは冬季の暖房の効きの悪さ、湘南地区に投入したので115系の効きとは違いとても寒かったです。後に中間扉は「冬季は締切」になりました。KSのキットが完成された暁にはドアにシールを貼らなければ。ニコンFE コダクロームKR 11月23日



 最悪の条件の救援車、同日訪れた宇部電車区にてスエ3176広コリ 奥はクモハ12 027。クモハ12に引かれて事故現場に向かうのでしょうか?反対側の連結器はどうなっていたのか?
 救援車は検査か廃車回送でないときれいな形式写真は撮れません、広島のマニ50次の検査回送はいつ?



 厚狭機関区の救援車オエ61 77広アサ 79年6月24日。梅雨の合間の陽の高い時間にコントラストの強いトライXで撮影するとこのような窓と外板の区別がつかない写真になります。でも救援車は車庫の奥深く写真の撮りづらい所に置いているので許してください。マニ60を改造したありふれた救援車です

 河合商会からホキ2500、8500、9500のシリーズが発売されます(12月)。いずれも石灰石専用ホッパー車ですが地下資源に恵まれない広島では縁がなく(広島車両所に全検で入場するが)山口の方に期待しましょうか。
 写真は79年11月3日(ちょうど29年前!)徳山で撮影したもの、当時一般貨物列車に数量づつつながって下るのを仕事中に見て休日狙っていたもの。
どうも成田空港建設工事が終わって「新東京空港建設公団」から「日本石油輸送」に譲渡され北九州か小野田方面に転属中の姿でしょう、社紋を消して上書きしています。3269レ(快速貨物) ニコンF2 プラスX 11月3日


 「日本海」を降りると東京に新幹線で向かいました、夕方問屋に行ってそのあと新橋のちゃんこ屋で模型業界のいろいろな話で盛り上がりました。酔いがまわった頃野○さんが「藤原さん今夜は赤羽に泊まるんですよね、だったら明日朝4時40分に起こしますので大宮で朝練しません」。私の頭の中では朝錬=授業前に岡ひろみと藤堂さんがテニスの練習をするぐらいしか無かったのですが要は大宮で列車の写真を撮ることでした。
 翌日5時に赤羽(カルビーの本社がある)駅から大宮に向かいました、「能登」「北陸」「あけぼの」(カシオペアの81だった)など撮影しましたがありふれてそうなので写真はEF210 118「鶴太郎」の牽引する4053レ「トヨタロングパス」です、大宮操発6時14分。続々やって来る貨物列車を撮って赤羽のホテルに戻り上野〜新松戸〜市川塩浜〜海浜幕張でホビーショーに向かいました、疲れました。   10月23日

 今回一番衝撃だったのは「日本海」敦賀駅での機関車交換、操車担当が「鉄道むすめ」時代の流れですね、私も昔気動車の分割併合をやりましたが、晴れの時は良いですが雨雪の季節は大変でしょう。事故なくがんばってほしいものです。

 毎年恒例のホビーショーが幕張で開催されました、東京駅の京葉線ホームまでの移動が嫌なので最近は火水曜日の定休日を使い旅に出かけています(日頃のウサ晴らし)。今回は「プルマン寝台でたどるキューロク、ハチロクを偲ぶ旅」。「きたぐに」と「日本海」と米坂線と花輪線を組み合わせたプランです。モハネ582のパン下中段寝台とオロネ24に乗車しました。特急寝台のプルマンは初めてですがこれが最初で最後のような。(急行はオロネ10に能登で乗車)
 室内などはよく写真がありますがこの写真は珍しい?オロネ24の座席の下にある寝台自動昇降装置のメカ部分、大阪着10時半までA寝台は解体しないままで下段寝台で暇を持て余して座席をはぐるとこんなものが。東芝製のモーターでしたが何年使用していないのでしょうか。 10月19日



 カトーからEF200新塗装が発売になりました、93年に発売された旧色(登場時)の際は非常に人気があり急遽試運転線路を増設した覚えがあります。
 それから15年「INVERTER HI‐TECH LOCO」ロゴも塗装だったので次第にかすれ哀れな姿になりました、賛否両論あるでしょうがきれいな姿になってよかったのでは。製品のナンバーは3、5、12、14ですが写真の19号機と17号機では色が異なるような気がします。もう一つ写真は同一地点の上り列車ですが向きが逆です。19号機はルーバー側、17号機は通路側、首都圏の複雑なルートを通ると向きが逆転するのでしょうが両面撮れるのは効率が良い事です。しかしうるさい機関車ですね。
今も銀塩カメラのニコンFM(メカニカルシャッターで電池も露出計以外は不要)、フジカラー、徳山駅にて




 広島市民球場がこの28日に最後の試合となり50年の歴史に幕を閉じました?数回球場には行きましたが最近はその横を歩いてまだ奥に配達に向かう事が多かったです。
 カープといえば「赤ヘル号」でしょう、列車本数の少なかった昔、試合終了を見計らって臨時列車を走らしていました。本線上下、呉線、芸備線にあったような。正面には立派なヘッドマークこれは有名ですが横のサボも写真のように立派なものが作られたのでした。85年4月この年のキャッチフレーズはサボの通リだったようでその年は2位でした。
 115系のオレンジ色がやけに濃いと思いませんか?この車両は岡山区の115系で幡生に全検に入る広島の車両にくらべ鷹取に入る岡山の車両は微妙にオレンジ色が異なり岡山の方が濃かった気がします。
 新球場が広島貨物ターミナルの横にできますがアクセスはどうするのでしょうか、宇品線を復活させて広島駅の0番ホームも復活させて103系のピストン運転を行うのが良いと思うのですが。
9月30日

 カトーのキハ30系が発売しかけています。片運の35と36が先行発売されてもこのあたりは30がないと意味がありません。おまけに「気動車の法則」=両運のM車が売れ片運のM車は売れ残る、キハ30早く発売してほしいものです。
 キハ35系の写真を探すと岩日線最終日の写真がありました、87年7月24日、河山?にて。翌25日錦川鉄道開業イベントに借り出された途中で撮ったものです、補強板付きタラコ色いずれ製品化されるでしょう。
 錦町の学校の体育館(木造)で錦川鉄道開業記念鉄道模型運転会があり2週間で製作した(させられた)2両のNT2000や一般の車両を走らせました。模型はRM87年9月号に記事があります。このあたりからイベントに模型がらみで参加させられ後の私のJR人生の変化につながってゆくのでした、すべて○古さんのおかげです。
ニコンFE コダクロームKR  9月19日

 クハ66303(元クハ79439) 81年2月12日 沼久保〜西富士宮 630M、113系冷房車の正面のようで何か垢抜けないのはなぜだろう?。ホロ枠が旧型国電用のRのゆるいタイプ、鋳鉄ブレーキで薄汚れた車体あたりか?。純正の113系と異なり種車の台枠を流用した車体裾の違いがわかりますか。しかしこのような車両が模型化されるとは。
9月8日

 新幹線といえばこれでしょう、甲種回送できない大型の車両なのでおのずと陸送か海上輸送となります。陸送は最近の日通のコマーシャルや10年以上昔の「日立ふしぎ発見」の中のコマーシャルに100系の運搬がありましたが海上輸送は珍しいのでは。
 写真は日立笠戸工場から積み出されている0系形式25、プリントの下の通り75年となると博多開業の車両かその後の増発用の車両と思われます。
 笠戸工場御自慢の巨大クレーンに吊り上げられる光景は見ごたえがあります。ここから海路大阪まで、そこから陸送で鳥飼の大阪新幹線運転所に運ばれました。写真は私でなく父が撮ったもので、小学校の社会科見学の時と思われます、ちょうど出荷があり運がよかった。レイアウトで誰か再現しませんか?      8月31日

  0系新幹線が本来の色に戻されこの秋で引退するので駅や沿線で写真を撮る人が増えています。模型屋でもカトーの0系が昨日売れました。
 0系の形式写真で珍しいのは「引き通し線」準備工事の写真、26-5233 NH82編成。西日本は最後の最後で0系にこのような事をやろうとしていたようです、しかしごついですね。静岡駅にて。静岡ホビーショーの頃は就学旅行シーズンで臨時列車が多く撮影効率が良かった、幕も「修学旅行」。

 先日のJAMでカトーからオリエントエクスプレスの製品化の発表があったそうです。今から20年前バブル絶頂期の日本を走った列車が再現できるとは長生きするものです。当時宮沢から発売になったリバロッシ?のオリエント急行セットを大量に販売した記憶があります。
 写真は広島駅での展示の時、88年11月7日。日本の線路を走った証拠の写真、バッファーの付いたマニ50と欧州の客車との連結部、連結面間隔の広い事。模型化にあたって心配なのは150分の1のスケールでやるかそれとも160分の1にするか、塗料の乗らない材質の台車TR47に白いアクセントの塗装をいかに再現するかでしょう。あとはカトーだから心配ないでしょうが、妻板の日立の検査標記をお忘れなく。
 控え車のナハネフ23はのちにトレーラーで運ばれ徳山市内のイベントに出展されたそうですがその後は不明、下松駅に送られた犬の「ダニエル」君は後に市内の保育園で余生を送ったそうで(ローカルニュースに登場していた)すが20年となればお星様になったのでは。




 トミーからDE10が再生産されました、82年の発売から基本的な所は変更ないので今から見ると古い製品ですが「これしかない」ので結構売れています。
 DE10といえばやっぱり「芸備線」でしょう(私は岩徳線ですが)、50系客車との組合せがベストでしょう。写真は84年5月9日狩留家〜上深川 832レ
今から思えばなつかしい客車列車ですが夏場は大変でした。2時間扇風機と窓からの風で涼むしかなく乗客が多いとデッキに立つ事となりますがは自動扉なので風が入りません(特にオハフの車掌室側)。乗客としても後に車掌になっても夏は辛かった。
 後に津軽海峡線の50系改造が広島工場でも行われましたが、芸備線車中から工場に青い冷房付の50系を見つけ「芸備線に冷房のついた50系が走る!」とぬか喜びした方がおられました。結局50系には冷房がつかないまま廃車になりJR後に通勤改造された12系で冷房化されました。8月3日



 続きで61系鋼体化客車の室内、北海道形のオハフ62 25 函ハコ 44レ 80年8月29日。窓枠が二重窓ののほかは内地の車両とほぼ同じです、背ずりが木張(痛そう)で扇風機がない、質素というか粗末な客車ですが30年前には100万都市の札幌駅でも見られたのです。
 シートピッチが1335_と115系0、300番台より狭い、同じ切妻客車でもスハ43系より窓が1つ多く走行写真で区別できます(台車見ればわかるが)。
 この夜行列車で札幌から函館まで乗車しましたがさすがにこの車両で一夜を明かそうとは思いませんでした。ニコンF2 コダカラー400 7月22日



 トミーからNゲージでオハ61系の製品化が発表されました、基幹形式のオハ61、オハフ61は広島あたりの配置が少なく山陰や四国に多く配置がありました。模型的にはオハニやオハユニの方が外観がおもしろく売れるのでは?、C56にオハユニ61が1両で木次線が出来ます。オハニは写真のように「岩徳線」の客車列車が再現できます。77年時点の在籍両数が12両、撮影が79年なのでそれなりに貴重な写真と思います。7月27日オハニ61376 824レ徳山駅にて、まもなくオハニ36に置換わる頃です逆光ですみません。
 475両も改造されたオハニ61ですがローカル線の気動車化などで用途を失い300両以上がマニ60やスユニ61に改造され68年には106両にまで減少してしまいました。  ニコンF2 トライX 7月18日  撮影して29年になるとは




 お客様からのリクエストでホキ7000、あの有名な伯備線D51三重連の後ろにセキ6000といっしょに連結されていた貨車です、列車は有名ですが貨車は煙の中。
 セキの積荷は水島の川崎製鉄に、ホキは姫路から分岐していた播但線の一部(通称飾磨港線)の飾磨に運ばれ新日鉄広畑に送られたようです。製鉄に消石灰は必要でかつては鉄道で多く運ばれていました、マイクロのホラ100カバー付も美祢線から八幡の新日鉄に専用列車で消石灰が運ばれていました。現在岐阜の西濃鉄道から名古屋臨海鉄道に残る石灰石輸送列車が唯一残っています(現地に石灰石から消石灰にするプラントがあるそうな)。
 製造初年1965年、メーカーは三菱三原、日鉄鉱業の所有を含めて総数25両、岡山と兵庫県のみ走行した貨車、ワールド工芸に発売してもらうしかないのでは?。86年7月21日 姫路にて ニコンFE コダクロームKR 7月10日



 カトーからED731000の発売の案内がありました、10月に牽引される20系客車といっしょに。
 そこで現役末期近い頃79年3月22日、小倉にて9レ「あさかぜ」、ヘッドマークがないのがさみしい。14系の「雲仙、西海」で九州入りし門司や小倉で撮影していました、そのあと門司機関区に向かいました。この写真を見ながらカツミのED72は完成したけれど兄弟機のED73は手付かずと思う私です。しかし東芝製造の「ハト胸」機関車の伝統はEH500に引き継がれているようで。 ニコンF2 ネオパン400  7月5日



 1ヶ月前ですがカトーからタキ35000が発売になりました、最近のカトーは何でも首都圏好きでタンク車もこちらに縁のないタキ1000ばかり、やっとありふれたタンク車を発売してくれました。
 しかし!広島は石油は徳山や水島から船で運んだほうが簡単です、昔も石油タンク車はあまり見かけませんでした、石油以外の化成品のほうが多かったようです。だがあきらめてはいけません、あの!芸備線に石油列車が走っていたのです。西三次の石油基地に大竹の興亜石油から一日4車程度ありました、「写真コーナー1」のホキ2200といっしょにDE10に引かれて。写真は西三次駅にてタキ35764 86年9月23日
 下松駅常備の日本石油の貨車を大竹駅臨時常備にして運用されていました、国鉄時代「寒冷地手当」のもらえる寒い所なのでガソリンだけでなく冬は灯油の需要もあったのでしょうが、所詮人口5万ちょっとの県北の大都会ではトラックのほうがコストがかからずこの年の11月に廃止となりました。しかし芸備線を走っていたので広島県の方は買わなければ。
 おまけに中国縦貫道が出来ると冬道路に散布する「融雪剤」の塩化カルシウム溶液を積んだカセイソーダタンク車「タキ2600」などが新南陽駅から西三次駅にやって来ていました。  
ニコンFE コダクロームKR 6月24日



 あえて出さなかった可部船の73系、横川にてクモハ73001右クモハ73041左 84年5月5日。
 三次から広島に転勤になり可部線の73系の置換えが間近となったので可部線の撮影に向かいました。まず横川に、後ろの建物に同じ職場の横川検査班があり「こんにちは○里検査長!写真撮らせて」で撮った写真です。形式写真を撮るにはもってこいの所ですがが001はパンタが上がっていない。
個人的には001は好みの車両です、「いこま工房」の屋根板やペーパが当店に入荷しています、2両で手軽にまとめられる可部線の旧国をあなたも作ってみませんか?  ニコンFE コダクロームKR 6月17日


  同じポジにナヤ11の写真がありました、チラッと見えるク5000や80系のほうが気になる?。ここは現在ではショッピングモールになってしまいました、左に当時の職場があったのです。
 急行「音戸」に使用された1960年日立製(私と同じ年生まれ)オロネ10 25を76年に広島機関区電気機関車用教習車として改造したもので広島運転所所属、今の貨物の広島機関区の建物の前の線路に留置されていました。
 床下の冷房装置や水タンク、はては電池箱まで撤去しているのて゜「ナ」級になったのでしょう、3の下に見える白いカバーが外部から電源を取るコードリールのカバーです。中にはEF65のシュミレーターがありました。ここ柳井のように乗務員区(車両の配置がない)に時々EF65といっしょにやって来て訓練が行われていました。手軽な窓埋めですNも16番もプラ製品があるので改造してはいかがですか?私は改造後この車両の形見の製造&改造銘版とともにエコーの「箱」におさまっています。この車両一世一代の晴れ舞台はEF59に連結されたイベント列車でしょう。
 80年12月3日 柳井にて エクタクローム ニコンFE



 70系の福塩線、80年11月23日 神辺〜湯田村間にて。4両編成なら115系に置き換えたらいいのになぜかクモハ+サハ+モハ+クハの105系4両編成に置換えられました。理由は府中電車区の検修庫が1両対応だったそうで新性能電車のMM´ユニットに対応してなかったそうです。しかし数年でサハやモハは先頭車改造されたのですからもったいない事で。
エクタクローム64 ニコンFE 5月27日



 旧国がまだまだ続きます、80系ばかりが旧国でないのよ。モハ71001 79年10月10日広島工場にて。10月といえば国鉄入社から半年で準職員から正式に職員になった月ですな、無料パスが通勤区間から広島鉄道管理局館内となりさっそく広島に出かけたと思われます。
 広島地区にやって来た71系で注目はこの全金試作車の710001と事故復旧車のクハ76351の2両でしょう、まじめに撮ってなくおまけに金とカメラのない高校生では全形式撮れずに悔しく思っていました。しかし広島工場に保管されているとの情報で広島から初めて芸備線に乗り矢賀から工場の正門に向かいました。入口で守衛のおじさんが「ダメ!」私が「同じ国鉄なんだからなにとぞ!」と言い合いとなりましたが私の真剣な眼差しに(?)「撮ってええ」で対面したのがこの写真です。車輪に囲まれて全景が見えないですが何とか現車に出会いました、DT15が見たかった。
 結局保存される事なく解体されてしまいました、柳井の80系のようにはいかなかったようです、後の話ですが80系もこの71も「あれは○田さんの趣味で保管しとったんよー」と当時の国鉄の実情を知る人は言っていました。
ニコンF2 プラスX    5月19日



 重工業都市の宇部ですが宇部岬を過ぎるとのどかな風景になります、「カッタ君」で有名になった常盤公園などあります。その先の床波の間の海岸線を走る旧型国電クモハ42001他。81年3月14日948M 
 仙石線も海岸線でしょうがぶどう色の旧国と海の取り合わせは少ないのではないでしょうか。エクタクロームEL ニコンFE 5月9日




 なつかしのタブレット初代レイアウト、開店当日なのでまだタバコのヤニでよごれていません。左の黄色の車両は写真コーナーで取り上げたマルタイです。車両を見ると当時の広島支社の代表車種ですね、奥に105系もいます。
 宮沢のC57は快調でしたが電車の動力の耐久性には苦労しました、開店初日でエンドウのトラクションモーターが死にそのあとマシマモーターとインサイドギヤの組合せも長続きしませんでした、当時鳴り物入りで登場した天賞堂のパワートラックGT1は数日でギヤが磨耗して金粉が出てきました。カツミのユニバーサルトラクション動力はフライホイールもあり快調でしたがギヤボックスが裸なのでホコリの多い当店では清掃の手間が掛かりました。最終的にはエンドウのMPギヤシステムで安定した走行となりました。このレイアウトで運転したお子様達も大きくなっている事でしょう。
 1階から2階に移転した95年レイアウトは取り壊されて処分されそうになったのですが個人に引き取られ現在も福山市に現存しています。そして2週間後に譲渡されたレイアウトを取り返せと支社から言われたのが尾を引き新レイアウトを作る事となったのです。



 それはある学士さん(大卒出の幹部)の発言から始まりました、「ドイツに行ったらさー駅の中に鉄道模型が置いてあってさーコインを入れると列車が走るのがあったんだよねーそんなものが広島駅にもあったらいいねー」聞いた支社の人は鉄道模型がよくわからず当時から鉄道模型好きで自宅にHOレイアウトがある某CTCセンター所長の所に相談に行きました。
 すると○古所長は「それなら○船と藤原にやらせー」となりレイアウトの製作が始まったのでした、正式にGOが出る前から4×2mのボード2枚をL字に配置してHO(複線本線とローカル線)とNの線路配置とする案で車掌乗務合間の休憩室でレイアウトプランを方眼紙に書いていました。
 クモハ84の翌日から広島運転所の1階でレイアウトの製作が始まりました。当初は悠長なもので会社の金で湯水のようにPECOの線路を使用してレイアウトを作るのは楽しかったです、しかし「JRのレイアウトなら継電連動装置の制御盤がないといけんでー」とCTC所長の意見(趣味)で配線が複雑怪奇となり朝から晩まで電気配線で格闘となりました。
 JR1周年の88年4月1日に間に合わすはずでしたが設置場所が決まらず4月29日新幹線口1階の待合室にようやくオープンする事となりました、店名も私が命名しました。
 レイアウトの横で鉄道模型を売る事となり店員はおのずと私達となりました、写真は29日の開店直前の写真、看板115系が阪急のようです、中に模型はありますが新品が一つもない!この時点では問屋との交渉はまだだったのです。オープンすると押すな押すなの盛況で1時間ちょっとで115系「シティ電車」のトラクションモーターは死んでしまいました。
 それから20年当時真田志郎のような青年だった私も佐渡酒造のようなおやじになってしまいました。店は変われど皆様のおかげで鉄道模型店をやってこれました、ありがとうございます、次は沖田十三めざしてがんばるぞ。「模型屋人生20年セール」の意味はこうゆう意味です。
 なおこの話はJR直営の「レールショップタブレット」時代の昔話です。

 突然「邪道の旧国」が出てきました、クモハ84、88年1月 小郡にて。
クモニ83改造の旅客電車!瀬戸大橋開業でローカル線に転落する宇野線に使用された電車です。しかし私にとっては車掌最後の乗務となった車両なのです。
 国鉄は就職して最初の職場の系統で退職まで勤める所でした。駅が最初なら駅か車掌区で、機関区なら乗務員か車両検修となります。就職して「あなたは保線」と知って愕然とし一晩涙したと記憶しています。か弱い身体の私は保線の事務系統に進み(精勤乗車証が自分で発行できる)ましたが国鉄末期「多能化」で他系統からも車掌を採ろうとなり「白い麻服の車掌にあこがれていました」と志望動機を記入すると何と合格したのです。
 86年11月から広島車掌区で車掌見習として机上教育が始まりましたが「こーたっちゃん 115系が何の事かわからんよー」と元保線の検査長、その中で「マニア」の私はそのあたりは楽勝で逆に体育会系の入換作業には難儀していました。車掌区にしても初めて他系統からの人間を教育するのは相当苦労したようです。
 国鉄最末期の87年2月念願の車掌となり、山陽線 岡山〜下関、呉線、芸備線、可部線、岩日線、岩徳線に乗務しました、チョンボもしましたがそれは楽しかったです「めざせ!あさかぜの専務車掌」だったのですが。
 88年1月に広島駅に鉄道模型のレイアウトを作る事となり最後の乗務がこのクモハ84だったのです、幡生車両所からの回送で小郡から広島、翌日糸崎までが乗務区間でしたカメラ持って写真撮って運転士に「95`出してくださいね」と喜んで乗務し吊掛音を堪能したのでした。まさか最後の乗務になるとは、橋本助役ありがとうございました。ところであの検査長はのちに「あさかぜ」の車掌になりました。



 続いてクモハ42 001です。81年3月14日 940M宇部新川にて、曇天なのでエクタクロームEL ASA400粒子が粗い。クハ55009とペアになっています。クモハ42の非パンタ側に幌座があったのはこのためで両運のクモハ40が検査などで足りない時連結されていました。現在の芸備線でたとえるとキハ47のペアの代わりにキハ40を使用するようなものです。次の日も宇部線に出かけていますなんと元気の良いことで。

 旧型国電が続きます、今回は地元宇部線のクモハ42005 77年5月3日。パンタが下がっているので正しい形式写真ではありません。初めて車両基地に訪問したのは小郡機関区で2回目はここ宇部電車区に向かいました。宇部新川駅から離れ住宅地の中にある電車区、構内には多くの旧型国電がたむろしていました。
 私たちの年代は正面に黄色の警戒色がないと様になりません。このクモハ42001は奇跡的に現存していますがどこに保存するのでしょうか?個人的には大阪駅改良の暁にドーム駅の中に展示して(吹田のクモハ52も)後輩の221や223系を見守るのが良いのではないでしょうか。 ネオパンSS ニコンF2   3月25日

 同じネガに恥ずかしい写真がありました、鉄道模型制作第1作の583系の写真、TMSを見て感化され完成したら写真を撮ろうとしてコタツの上でカメラを置いて撮ったものです。当然三脚も照明も接写レンズもない本当に恥ずかしい写真です。
 模型制作の第一作が583系とは無謀なもので最初は図面がなかったので写真から判断して作り塗装は「絵の具」!にニス塗り。TMSのバックナンバーに583系の図面があるとわかるとすぐさま購入(TMSは機芸出版社から定期購読していました、水色の袋覚えていますか)。中尾豊氏の図面を見てショック!それから作っては壊しの連続でした(ただし部品は再用)。
 車体はケント紙、補強の角材は何と中学の美術の版画の板(シナベニヤ)を切ったもの、屋根はバルサ、床下はプラ板、機器はカツミの一体成型をバラして配置、屋上機器は自作もありますがABBは何とニワのロスト!、塗装はマッハをバジャーのガンで吹きましたがエアーボンベがもったいないので自転車の空気入れ左手で押していました。今見れば若気の至りがあふれる車両です。
 8両で一応まとまったのですが他の形式に浮気して完全版はいつできるのでしょうか?   ニコンF2 ネオパンSS   3月29日



 旧型国電が続きます、70系クハ76035他 小郡駅にて、77年5月3日。宇部電車区の次は小郡機関区でDD11を撮る為列車を降りると70系の普通電車がいました。モハ70でなくモハ71が屋根の高さでわかりますか、中央東線の「山スカ」が転属したのは75年の事、最後の余生は呉線、山陽本線小郡までの区間でした。78年には115系に置換えられたので皆さんの記憶にあまりない電車です。1日1往復小郡に向かう列車があり喜んで乗りに行きました、ただし車内は80系と比べると粗末。呉線や芸備線に残っていた旧型客車のデッキのドアから乗客が転落する事故が多く発生したため老い先短い71系が転属してきたのでしょう。当時の車両担当の元国鉄の古老曰く「(本社が)古い車両じゃが今は我慢してつこうてくれ、そうしたらいずれええ新車をいれてあげるけいの」と言われたそうです。おかげでその後50系や115系2000、3000が優先的に入ったのでしょう。
ニコンF2 ネオパンSS 4月7日